石油王 中野家
中野家は、越後国中蒲原郡金津にて、代々庄屋で文化元年(1804年)中野貫一の曾祖父・次郎左衛門が草生水油(石油)採取権を190両で買い取り「泉舎」と号して、「草生水油稼人」を兼業とするようになりました。
中野家は、江戸時代から近隣に聞こえる豪農でしたが、さらに巨富を築いて中野家の名声を上げたのは中野貫一でした。
貫一は、14歳の時に父を亡くし、里正(りせい)役と「泉舎」を引き継ぎました。明治6年「日本抗法」が公布されるや、直ちに新潟県庁に石油試掘を出願し許可を得て、翌7年(貫一28歳)の9月、自分の所有地の草生場を開抗して若干の出油に成功しました。
この時のことを貫一は、「石油起業記」に記し、「天運はここに開け、実理の貫徹すること幾許ぞ難有感佩仕候」とその喜びを唄いましたが、それも束の間その後の試掘は失敗の連続でした。
そのため、家産傾き親族知己の多くは「当てのない闇汁を飲まされるような冒険事業」を止めるように忠告しましたが、貫一は初志を捨てませんでした。
そしてついに、最初の試掘から29年目の明治36年(貫一58歳)に初めて商業規模の油田を掘り当て、金津油田(新津油田の一部)開発の端を開きました。
その掘り当てた井戸は、一度掘削に失敗した所で、忠太郎(貫一の息子)がそこから原油がこんこんと湧き上がる夢を二度見て貫一に話し、再度挑戦したものと代々伝えられています。
その後、幾多の苦労を経ながらも屈せず、当時の二大石油会社であった日本石油および宝田石油に次ぐ大産油業者に成長し、明治・大正時代に「石油王」と呼ばれました。
産油事業は、新潟県の刈羽村や秋田県院内地方などの地域に拡大しましたが、その後第二次世界大戦で燃料が枯渇し、昭和17年に戦時国策の帝国資源開発法により国内の掘削業者は1社(帝国石油株式会社の前身)に合併となり、中野家の手を離れることとなりました。
入口の門構えです。新潟県随一の新緑と紅葉の名所です。
邸宅の大玄関です。一般入口は、この右側にあります。
賓客用の和室です。座布団は、絹製の特注家紋入りで100年近い時の経過とは思えないほど、今でも鮮やかな色彩を保っています。
主庭です。もみじの紅葉が素晴らしいです。
中庭です。ここも紅葉が素晴らしいです。
邸宅のとなりにあるもみじ園です。1200坪の広大な山地庭園に、約130種、200本のもみじがあります。
敷地内にある「石油の世界館」です。ここは入場無料です。
公益財団法人 中野邸記念館
〒956-0845
新潟市秋葉区金津598
TEL 0250‐25-1000
※冬季休館